自然は芸術を模倣する
かつて月にはウサギが住んでいると言われていた
しかし、今はいないらしい
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ウサギはなぜ消えたのか?
絶望? la desperazione?
希望? La speranza?
忘却? La dimensicanza?
脅威? La minaccia?
どこへ行ったのか?
うさぎはいつ消えたのか?
気がつくといない。いついなくなったのか、記憶を遡っても最後に見たのがいつなのかはっきりしない。それほど存在感がなくなっていただろうか。責任はあなたにはないと言われても喪失感はぬぐえない。なければないで済んでしまう。それだけのものだったのか。
もしかすると寂しかったのか。
もういいや、そう思って出て行ったのかもしれない。取り返しのつかないことだ。当たり前だが、時間は戻らない。過ぎたことは改定できない。熱力学第二の法則にある通り宇宙開闢以来、エントロピーは増大し、生き物はそれに逆らって生きている。だからこそ済んだことを受け入れ、先に進まなければならない。
いつということを問い続けるにしても、大切なことは日時の特定ではなく、記憶として定着させ、クロニクルを作成することだろう。
ウサギはどのように消えたのか
かくれんぼう
変異
偽装
望郷
ウサギは誰だったのか?
あなたのことは一生忘れない、絶対に、などと言っていたのに意外とあっさり忘れているものだ。生きていくとはそういうことだから言い訳はいらない。忘れたことすら忘れてしまい、もはやあなたが誰であるのかさえわからない。すれ違っても互いに気がつかない。さばさばしていいや。でも寂しい気もする。それ以上に恐ろしいことでもある。忘れてはいけないことがある。なにもかも忘れてしまえばあなたどころか自分が誰であるかさえもわからない。
辛かったことを忘れるのは生きるために必要な作用であるが、かといって完全な消滅ではない。死の瞬間、それまでの出来事が走馬灯のように流れるというではないか。記憶の引き出しに鍵がかかっていただけなのだ。生きる必要がなくなったとわかった瞬間、解錠されるのだろう。
うさぎが誰であったのか。
もう一度、思い出そうと努力してみることにも意味があると思う。死を待つまでもない。方法はある。例えば言葉を壊すことだ。「詩」と名付けられている。自我を壊すのでもいい。修行だ。ある種のスポーツの鍛錬でもいいかもしれない。
やがて足跡を見つけるかもしれないし、おぼろな影に気が付くかもしれない。意外と身近にいたりするものなのだ。あなたが忘れていただけで。
あれはいったい誰だったのか。