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​万物流転

​古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトス(前540-480頃)の言葉。すべては生成変化しているという考え方は東洋にもあり、インドの永劫回帰や仏教の無常にも近い。特に後者は「平家物語」冒頭にも謳われ「諸行無常」として日本の風土に由来する「あはれ」の美学につながり、日本人になじみ深い。しかしながらいささか異なる点としては、ヘラクレイトスは「自然は隠れることを好む」とも言っていることからわかる通り、普遍的真実について希求している他の哲学者に対して、異を唱えているのである。タレスの水、デモクリトスの原子説、ピタゴラスの数など、彼らは万物の起源、固定した真理を求めていた。ヘラクレイトスはそうした試みはとん挫すると警告した。この考え方は現代の哲学や量子力学にまでつながってくる。

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​タブララサ

ジョン・ロック(1632-1704)の言葉で、生まれつき備わっている観念はなく赤子の脳は白紙であるということ。厳密には人間の脳には地球生命の歴史が畳み込まれており完全な白紙ではないが、観念はない。むしろ「三つ子の魂百まで」と言われるように、脳が爆発的に発達する幼少時に「人間」として育てられないと言語の習得などは難しいことが知られている。狼に育てられた少女は、どんなに教育しても人間らしさは取り戻せなかったという話がある。

​哲

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​我思う、ゆえに我あり

コギト・エルゴ・スムというラテン語でも知られるルネ・デカルト(1596-1650)のフレーズ。彼はすべてを疑った果てに、根拠として「我」を見出した。この「我」が学問の根拠、理性を備えた市民としての近代的な個人へと展開していく。しかし、根拠としての「我」については、十九世紀から数々の疑問が呈されている。無意識に潜む自分でも知らない自分。言語で言い表せない自己の部分。身体としての自己。脳内現象としての自己。社会関係の中の自己。さまざまな自己があり得る。こうしたことからむしろ現代では「我」が先にあるのではなく、自己は関係性の中で形成される現象として捉えられている

​汝の意思の格率

イマヌエル・カント(1724-1804)は「汝の意思の格率が常に普遍的に妥当するよう行動せよ」との道徳律を唱えた。簡単に言えばいつも「正しく行動しろ」ということであり、漠然としているが、それは彼があくまで普遍性にこだわったからである。だがいつでも正しいことなどない。絶対的普遍性は定立できない。特に状況の変化が加速している現代に生きる我々は常に感覚を研ぎ澄まし、善悪の判断を更新し続けなければならない。

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正   反    合  

G・W・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)は、論理の道筋として、まず立てられた論(正)があり、それに異議を唱える論(反)が出て、両者を踏まえた形で次元を上げた結論(合)に至るというプロセスを想定し、弁証法として定式化した。思考にダイナミズムが導入され、欧州の病であるキリスト教的な普遍性(真理)の固定化を緩和する作用があった。しかしながら、変転の最終地点である絶対精神=超越者=神が残されたため、この改革は不完全である。

​神は死んだ

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)「ツァラトゥストラはこう言った」の中の言葉。こう宣言しなければならないほど西洋の一神教は強い。今も神は「科学的真理」など普遍性を担う別の概念に変化してしぶとく生き延びている。そもそも東洋では神はたくさんいるし、死んだりすることもあるからわざわざこのように言う必要もない。

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フリードリッヒ・ヘーゲル(1770-1831)は、思考のプロセスを矛盾と対立(正と反)でらえ、それを克服(合)して次元を上げていくことで現実と一致できるとして弁証法と名付けた。固定化した真理ではなく、常に変動する現象とその思考から世界を捉えようとし、「動き」を持ち込んだ。ただし終着点としての絶対精神(超越的存在)を措定していることから、以前として一神教的イデオロギーからは逃れられていない。

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​語り得ぬもの

ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は論理的に明快な命題以外は学問的に無意味と考えた。語り得ぬものについては沈黙せねばならない、と述べ、まったくその通りなのであるが、この「語り得ぬもの」は不可知論にもつながり、神秘主義的・詩的霊感を信奉する者の福音にもなる

​実存は本質に先立つ

ジャン・ポール・サルトル(1905-1980)は、西洋社会に根強い「本質主義」と対抗するために「実存」という概念を用いた。自分で決定する自己といったニュアンスだろうか。キリスト教的な既成価値を前提にせず、新しい時代を切り開こうとした言葉である。素朴でほほえましいとすら感じられる。私たちはこのような確固とした実存が見えない時代に突入して久しい。テクノロジーの進展と商業主義によりデータにからめとられた実存をどのように回復するのか。それが現代の課題かもしれない。

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​絶対矛盾的自己同一

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​純粋経験

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​無の場所

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​​逆対応と平常底

日本を代表する哲学者、西田幾多郎(1870-1945)は、座禅による思索から主観と客観、見る側と見られる側が分離する前の「純粋経験」という概念を編み出した。そして欧米とは異なり、主語よりも述語が優先する日本語の論理構造から、在るということの根底にすべてを包み込んでいるような場を想定した。場であるからそれはモノではなくコト、現象である。捉えようとしても移ろいつかみどころがない。仏教の無に近い。無なのに有る。有るのに無い。有即無、無即有。矛盾しているが同一の現象として常である。

理解しにくいが、現代のようにデジタル化で一かゼロか選択を迫られる社会においては、貴重な見解でもある。量子コンピューターでは、イエスとノーが重ね合わさっている状態が存在するという。矛盾していてもいい、そのまま飲み込む。こうした考え方が必要な場合もある。

近親者を相次いで亡くした西田は晩年、相対的な存在に過ぎない人間がいかにして絶対的な存在に接することができるか考え続けた。それが逆対応である。神は人間との向き合いで絶対性を減じる。一方、人間は神との向き合いで相対性を減じる。そしてその果てには死がある。死が究極的な絶対性なのである。

平常底とはこれを理解し、それでも日常に留まる者、つまりは悟った生活者のことである。ここには東洋に特徴的な往還の思想がある。修行者、求道者は超越者、あの世、極北にたどり着いた後、必ず戻ってくる。そして人々のために尽くすのである。

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